夏の場所

今年もまた、日本でいちばん寒いシーズンに海外逃亡してしまった。2月の日本はどうでしたか。私は、海上にいました。

 

2月はほとんど船に乗っていた。その間、私たちにとっての世界は船だった。外界から遮断されて、人間と人間を邪魔するものがなくて、目の前にいる人と、環境と、問題に対峙する環境にいた。それが私たちの世界だった。33日間も一定の場所に缶詰めにされていると、今までの当たり前が当たり前ではなくなってしまうことが多々あった。普段なら家に引きこもって外に一歩も出ない日があってもおかしくなかったけれど、暇な時間を見つけたら甲板に出て海風を味わった。自分のことをもっともっと好きになった。自分が嫌いになった時は、昔はもう死にたいとかこの世に存在する意味はないとかすぐ落ち込んでいたけど、自分自身を受け入れることができた。世界中に友達ができた。地球の裏側(本当に、時差が12時間)のことでも当事者意識が芽生えた。人を信用し、信用される感覚を知った。何より、船を、海を、自然を、そして人を心の底から愛している。相手の幸せを心の底から願えるようになった。

 

何かと、自分は夏にゆかりのある人間だとふと思った。大好きな人たち、大好きな瞬間、大好きな場所に出会うのは、いつも夏だ。高校2年の夏、去年の2月のフィリピン、今年の2月の太平洋。帰りたいと思う場所にはいつも夏の記憶がついてくる。

 

それでは。

2019

久しぶりにはてなブログを開いた。昔は何かにとりつかれたように投稿していたが、最近になってその気力が失われてしまった気がする。割と昔の投稿は黒歴史だったりするけど、良い記事は良いなあ。

何かを生産するということはとても疲れる。

文章を書くのだって、今は脳みそに浮かんだ言葉をそのままタイプしているからそんなに労力はかかっていないが、良い文章を書く必要がある機会は今まで生きてきてごまんとあった。レポートはいかに内容を引き延ばせるかの戦いだが、紹介文とかそういう類のものは書くのに時間がかかる。

他に生産するものと言ったら、発話とか。内容の薄っぺらーい会話をするのは楽ちんだけど、、、、なんか、もう当たり前すぎて書く気力がそげましたが、そういうことです(雑)

 

書くことを放棄してしまった。みんなが心の底で思っていることをうまく言語化できるようになりたい。

 

それでは。

フライング拍手取締係

 

最近、自分の中でフライング拍手問題が話題だ。発表用のレジュメを作成すべくパソコンを開いているが、結局はこっちに走ってしまうのだ、、ちゃんとやります。

 

フライング拍手とは

フライング拍手とは、クラシック音楽のコンサートにおいて、拍手すべきではないタイミングで、一人またはそこまで多くない複数人が、一回または複数回程度の拍手をする現象のことである。主に、交響曲の楽章間、ゲネラルパウゼ、残響が残っているのにもかかわらずそれを無視した場合、指揮者が棒をおろしていないのに曲が終わったと勘違いした場合などが挙げられる。奏者側、客席側の双方にストレスが加わるため、できるだけフライング拍手は避けたい。

 

フライング拍手の原因

①曲の予習不足

ある程度時間がたって、全部の楽器がなんかいい感じの和音を鳴らしたらそれが曲の終わりだろ?と勝手に解釈する人は少なくない。

例 ブラームス「大学祝典序曲」

あと重音2発と一小節分のフェルマータ伸ばしがあるにもかかわらず、拍手した人を前回の定期演奏会で目撃(耳撃)した。確かに、大祝の終わりから3小節目の3拍目で、一回すべての楽器が鳴り止むのは間違いない。だが、まだ曲は終わっていないのだ。いや、その残りの2小節で「ああ、長かったこの曲も終わろうとしているのだ~!」という気持ちになるのに、それなのに、まだ終わりの気分ではないのに、そこで叩くんか~~~~~~~~~~~~~~~~い!?

 

②感情移入した

良い曲すぎて、名演すぎて、感極まった、気持ちが高ぶった、泣きそうになった、その気持ちを表現すべく拍手したくなる気持ちもわかる。いや、わかる。フィリピンでは何度も曲中拍手を経験したし、フィリピンでなくても、例えばバレエの公演だったら、演者さんが片足でめちゃくちゃ自転するやつとか、何周もぐるぐる公転するやつ(あいにく、私はバレエには超疎い)をしていたらお客さんも自然と拍手を始める。吹奏楽のコンサートだって、ソリストがソロ終えたらみんな拍手するし。だが、申し訳ない、クラシック音楽のコンサートでは、いくら楽章間の数秒だって、大事な時間なのだ。交響曲は、1楽章から終楽章まで、すべてを通してやっと一曲終わるのだ。小説だって、何章かに分かれていて、すべてを読み終わってやっとストーリーの全貌を知れるだろ?マンガだって、ドラマだって、アニメだって、1話完結型ではない限り、最後まで見てやっと理解するだろ?それと一緒です。「いやあ~このドラマ、良かった!(まだ3話目)」とはならないだろ!どうする次回がクソゴミだったら!!

例 チャイコフスキー交響曲第6番」

有名すぎて語るものはありません。

 

③寝て起きたら静かだったので拍手した

クソ。

 

奏者側からのフライング拍手

客側からのコメントは多く見るので割愛します。

 

①楽章間拍手、クソ

ピリピリ系の曲でこれをやられると死にたくなる。残響を聞け!

特に、楽章間がアタッカの場合、少しでも拍手が入ると次の出だしで戸惑ってしまうし、やめてほしい。集中力が途切れる。

 

②拍手を引き起こすくらいの名演を私たちはしたのか?やったぜ!

私は楽章間がアタッカではない場合、フライング拍手にはめちゃくちゃ寛容だ。自然と拍手が出ちゃうくらい、良い演奏をしたのかな、とも思うし、それがパチン!じゃなくて、複数人が複数回、パラパラ、、ってくらいの拍手だったらなおさら許せる。

例 のだめカンタービレ 孫ルイのボレロピアノ協奏曲

何巻かは忘れたが、1楽章の終わり方も相まって、客席がワア、、!っとなるけどルイとオケとマエストロが「Non~」って顔で客席を見て諭す、というシーンがある。でもルイはそれを好意的に受け取って、「今日のお客さん、好き!」となるのだ。

これを見てからというものも、私もルイみたいに余裕をもって客席に向かって「Non~」という顔をしてみたい、と思っている。

 

③曲中拍手は論外、クソ

これはマジで、クソ中のクソである。辞めておけ。レッドカード。

 

フライング拍手の回避方法

①これを読め

https://www.amazon.co.jp/%E6%8B%8D%E6%89%8B%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E2%80%95%E7%A7%98%E4%BC%9D%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E9%91%91%E8%B3%9E%E8%A1%93-%E8%8C%82%E6%9C%A8-%E5%A4%A7%E8%BC%94/dp/4120039250

 

以上です。

 

それでは。

冬の味覚

 

三大欲求の中で順位をつけるとしたらやっぱり食欲が一番だ。

 

睡眠もそこそこ、いや、かなり、いや、とっても好きだけど、ここで寝たくない!って時にやってくるのが許せない。でも布団は世界一好きな場所だから、なあ。

 

 

ごはんは、味覚だけで感じるものではない、五感すべてを使って感じ、そして時には過去を思い出したり、舌の上にのっているそれにたどり着くまでの長い道のりに思いを馳せ、ゆっくり噛みしめ、胸に手を当て、目を開き、鼻から空気を大きく吸って「おいしい~~~~~~~~~~~~~~!」とありったけの表情筋を使ってため息を吐くまでが、正しいごはんの味わい方である。そのあとはちゃんとお冷を飲んで、白米とお漬物を食べ、おみおつけを飲み、ほっこりしたところでちゃんとメインディッシュと対話するのだ。

手ごわい相手もいるが、たいていの場合、お店の場合は、数ある品目の中から自分が選びに選び抜いたもの、お家の場合は、数あるレシピの中から自らの気分とやる気と予算に見合ったものなので、手ごわいよりはむしろ、自分自身を包み込み、あたたかい気持ちにさせてくれるものがほとんどである。なにせ、空腹だと(私の場合四六時中空腹だが)それがチンしたご飯で作ったお茶漬けでも、こがしすぎたトーストであっても、沸騰するちょっと手前のお湯で淹れたティーバッグの紅茶でも、なんでもおいしく感じ、サッカー日本代表の国歌斉唱の時のポーズを取り、その幸せを精一杯噛みしめたくなる衝動にかられるのだ。

 

あたたかいものは、好きだ。あたたかいご飯がなんだかんだ一番美味しいし、冬になると家のストーブの前で体育座りをして、動かない。冬は好きだ。人があたたかくなる。一人が嫌になる。鍋は美味しいし、ラーメンもおいしい。汗だくで食べる釜揚げうどんも好きだけど、手首より長いセーターを腕まくりしてこたつで食べるキムチ鍋の〆のラーメンほどおいしいものはない。夏に飲むアイスコーヒーより、暖かい店内で飲む冬のアイスコーヒーの方がおいしい。飲んだ後に外に出て、失敗した、ホットを頼むべきだった、と後悔するまでが醍醐味だ。

 

 

それでは。

報告

 

演奏会が終わりました。楽しかったな、詳しくは私のツイッターFacebookを見てください、といっても後者は友達しか見れないけど。しつこくなっちゃうのは嫌なのでここでは多くは語りません。でも、ひたすらに夢中になれたし、音楽をやってきて本当に良かったと思えました。毎演奏会後そう思うけど、私にとって音楽は、オーケストラは、バイオリンは、無くてはならないものです。もしあと1年で寿命ですと言われても、もし近しい人が離れていっても、もし死にたくなっても、生きねばと思っても、周りの環境がどうであれ私はずっと何かしらの形で音楽を続けていきたいです。バイオリンを始めてもう17年くらい経つのかな、家族の次くらいに長い付き合いです。年相応の技術はないけれど、バイオリンは何よりも大好きです。

勝手に震えてろ

 

久しぶりにオーケストラについて書いてみようと思う。

 

オケってなんて魅力的なんだ!って思うけど、そう思わない人も何人もいるだろうし、逆にそう思う人もいる。私は後者だけど、その感情が最近当たり前になってきてしまって、身震いするような演奏が最近できなくなってしまった。てか今は身震いするしないの問題以前に、自分が弾けてなかったり、アンサンブルが上手くいかなかったりしていて、(バスケに例えると自分のシュート率が低かったり、パスが相手にカットされまくりだったり、って感じ)それどころではない。

 

身震いする演奏ってどんな感じなんだろうか。

 

中高のころはよくあった。

一番覚えているのは中3のころにやった千と千尋メドレーかなあ。弦楽合奏で、ピアノ付きで、和音が本当に素敵でセカンドバイオリンもちゃんと美味しいメロディもらってて。それぞれのパートがほとんどdivでめちゃくちゃ濃厚な音だった。この曲の威力はものすごくて、それの初合奏ではみんなも弾けていないのに、ひとしきり感動した。なんて素敵な曲なんだ!

 

次はチャイコフスキーの弦楽セレナーデの1楽章で、この曲はとりくむのに死ぬほど苦労したし(当時は半飛ばしができなかった)とりあえずアンサンブルが死ぬほど難しかった。チェロ、あれ弾かせる気ないでしょ?でも最終的に弦5部が全部合わさった時は腕全体に鳥肌が立ったし、あれ以上良い演奏はこの世にはない、と信じ込むくらいには最高の定演ができた気がする。

 

最近だと、ヴォーン・ウィリアムズの幻想クインテットの1楽章を合わせた時、これまた5人の和音がぴったり合わさった時があって、その時もまた腕に鳥肌が立った。あいにくそれは練習で、本番は緊張してしまって自分の納得がいく演奏はできたとは言えなかったけど、でもあの時の練習は今でもちょっと忘れられない。

 

でもやっぱり、一番身震いしたのは、もうこれは人生であと5億回は言うが、フィリピンで演奏したニューヨークからの4つの絵、きらきら星、悪魔の踊り、スペイン奇想曲だ。他にもいっぱい曲を弾いて、それも全部好きだった。これは本当に譲れない。学校公演でも、リサールパークでの一般向け公演でも、曲中に歓声が湧いたり、拍手をしてくれたり、聴衆と奏者が音楽で一つになった感覚を味わうことができた。何度も身震いをした。フィリピンの空気、フィリピンの笑顔、フィリピンの熱気、フィリピンの輝き、あれは全部忘れられないし、その時は心の底から音楽が好きだと思えた。

 

常に身震いを求めている。間違いない。あとは自分の努力じゃん?

 

 

なんだかんだ宣伝はしますよ。

久しぶりに、定演で震えたいなあ。

 

それでは。