俺の夏(備忘録)

 

前回の記事を投稿してから早1か月が経った。

やっと、やっと落ち着いた日常を取り戻しつつある。1週間単位で別の場所に飛び、慣れない地での生活、そして移動を繰り返していた。これを4回ほど繰り返すと、最終週で38度の熱を出すことを学んだ。

本投稿では、1周1週を振り返ってみようと思う。どの瞬間を切り取っても、尊いモーメントであふれかえっていた。

 

第1週 インドネシア

クアラルンプールを経由してインドネシアのスラバヤに着いたのが羽田を出発してから13時間後のことだった。南半球、赤道に限りなく近いこの街は、意外にも東京より涼しく、夏といっても乾燥しているカラリとした暑さだった。過ごしやすい。

とはいっても、着いた当日は長時間のフライトによる疲れでほぼ記憶がない。私が乗った飛行機史上狭いくて固いシート、最悪なサービス、頼りになるのは空港まで見送りに来てくれた恋人との写真のみ、、、このような状況を13時間継続した後、寝ること、シャワーを浴びること、ご飯を食べること以外は何もできなかった。

てっきり英語が通じると思っていたが、全く通じなかった。数字すら怪しい。みんなお構いなしにインドネシア語で話しかけてくる。私もあきらめて日本語で話し始める。お互い様だ。インドネシアの子どもたちはきょとんとした顔で見つめてくるが、私はお構いなしに日本語で語り掛けることを決め込んだ。

スラバヤに行ったメインの目的は、子供たちに音楽を届けることだった。音楽―それは私という人物を語るうえで欠かせない項目だが、それについての私の感覚がガラリと変わった。たった1週間で、人の考えを変えてしまうのだから、新しいことを経験する、ということは恐ろしい。

この話を語るのにはものすごい体力を要するので(その体力は今はない)、当時、といっても4週間前だが、私が書いたインスタグラムの投稿を引用する。

 

 

7日間下痢と戦いながら、スラバヤでのワールドシッププロジェクトを無事終えることができました!とりあえず今は、日本のご飯と水を摂取したい気持ちでいっぱいです。

最近の私は、音楽に触れている時「愛と国境」「フィルター」「瞬間と永遠」の3つの軸が常に存在しています。話すと長いので1番目だけについて書きますね。

今回のプロジェクトで一つ大きな気づきがありました。それは「音楽には国境はあるけど、愛には国境がない」ということです。私は1年前くらいまでは盲目的に「音楽に国境はない!音楽は世界の共通言語!」って言ってたけど、実はそうじゃない。国境がないのは愛でした。

音楽そのものには国境はあります。チャイコフスキーはロシア人だし、奏者の私は日本人だし、お客さんはインドネシア人。だから私がチャイコフスキーの曲を完全に理解することはできないし(生きている時代も違うので)作曲家の意図を理解したとしてもインドネシアの子供たちにたった一回の演奏で伝えることはできません。

音楽は作曲者の生き写しです。だからその曲を「理解」するためにはその国のことまで理解する必要があります。(だから私たちは「ロシア音楽は〇〇だ」「フランス音楽は」「ドイツ音楽は」っていうフィルター越しに音楽を捉えることに執着しがちなのだと思います。) それじゃあ、じゃあ私たちは何故「音楽に国境はない」と思うのでしょうか?それは、奏者も聴衆も音楽を愛しているからだと思います。聴衆がある音楽を聴いて身震いしたり、感銘を受けたりするのは、私たち奏者が愛を持って演奏しているからなんだと思います。私たちが音楽を愛しているから、その愛を音に乗せて発信しているから、それを受け取るから、言語が通じなくても、バックグラウンドが全く違っても、通じ合えるのだと思います。

私は音楽を愛しています。時に愛のない演奏をしてしまうことはありますし、どうしても自分の立場、責任などから思うように演奏できない瞬間も沢山あります。でもそういう時は今回のインドネシアでの経験(初めてバイオリンに触れた時の笑顔、よく通る歌声、キラキラした瞳)を思い出そうと思います。

 

そんなこんなで、下痢が収まる気配はなく、スラバヤから逆ルートで羽田に舞い戻ってきた。恋人が迎えに来てくれていた。日本はムシムシと暑かった。

 

第2週 東京

この1週間で私は下痢を治す必要があったが、それは不可能だった。

所属オケの練習、インターンシップ、そして自分の誕生日、とイベント続きで毎日外出、インドネシアの荷物の整理とスウェーデンへのパッキング、これをすべて行うのは不可能では?私は本気で焦っていた。本気と書いてマジと読む。そんなことはどうでも良い、すべての瞬間を大事にしたい気持ちが盛り上がって、脇目もふらず洗濯機とスーツケースと箪笥を行き来した。

誕生日には美味しいご飯を食べた。お腹が痛いとかどうでもいい。好きな人と、美味しいご飯と、あと世界一のプレゼントをもらった。21年間、私はよく頑張ったと思う。私は長生きしたいから、これからもこの体には頑張ってほしい。

私にとっての最近の変化をひとつ。20歳のころは、私は絶対50歳で死ぬ、と決めていた。でもやっぱりやめだ。できるだけ長生きしよう。私には見たい世界がたくさんある。少子高齢化なんてくそくらえだ。そんなのどうだっていい、私は老人になっても美しい世界を、美しい人たちと見ていきたいのだ。

 

第3週 スウェーデン

半年前に出会った友達を訪ねに、高校の同期を引き連れてストックホルムへと飛んだ。

今回はバンコク経由。インドネシアの時とは違く、快適なフライトだった。なんせ、機内食がバカ美味い。スプライトをちゃんと無料で出してくれる。毛布もある、テレビもある、シートもふかふかだった。

今回は友達のおじさんとおばさんの家にお世話になることになった。軽いホームステイだ。おじさんたちは家の2階しか使っていなかったらしく、1階(3LDK)をまるまる5日間貸してくれた。ピアノがある素敵な北欧のお家だった。スウェーデンに着いた瞬間、下痢は治った。

ストックホルム、といっても私たちが寝泊まりしていたのは街からバスを乗り継いで1時間くらいのエキビホルムというごくごく小さな村だった。湖と畑と農場と、たまに家や学校がある、自然豊かすぎる村。私はエキビホルムが好きだ。スウェーデンフィンランドも「湖と森の国」とよく言われるが、それを体現したものがそこにはあった。ストックホルムに、「普通」に観光にきただけじゃ味わえないものばかりだった。

肝心の友人もちょっとおかしな人で、昔ボーイスカウトをやっていたせいか、そこらへんに生えてる草の根っことかを適当に処理して食べさせてきたり、スピード違反の速度で真っ暗で曲がりくねった森の夜道を運転したり、私たちのスウェーデン初日の夜にレバノン料理屋さんに連れて行ったり、面白い体験がたくさんできた。

もちろん「面白い」体験だけではなく、素敵なこともたくさんあった。

最終日にはバルト海に連れて行ってくれた。スウェーデンフィンランドの間の海だ。私が見たなかで一番大きくてきれいな虹と、マグリットの絵に出てきそうな、夕方と夜の境目の空を見ることができた。私はやっぱり自然が好きだ。人生21年間のうち18年間は東京に住んでいる根っからの都会っ子だし、虫は苦手だし夜道は怖い。でも、海とか森とか湖とかを見ると、圧倒され、心揺さぶられ、ずっとそこにいたいと思う。その永遠とも思われる広さと、怖いほどの永遠さと、広すぎることからの恐怖、これらが混ざって動けなくなってしまう。

帰りもバンコク経由で帰ってきた。また、恋人が途中の駅で迎えに来てくれた。この人は、たぶん私のことが好きなんだろう。

 

第4週 長野

スウェーデンから帰国した次の日から、所属オケの合宿があった。自分は興奮していたので気づいていなかったが、たぶん相当疲れていた。2日目の夜に熱を出した。

私は半年に1回熱を出す。これはもう、熱を出したその時から、次熱を出す日が決まっているかのように、もう、どうしても変えられない体質なのだ。

私の体はたぶん、エンジンみたいなものなのだ。動きすぎると熱くなって、冷ませないくらいになるときがごくたまにある。それがちょうど合宿2日目に当たってしまったのだ。

不幸中の幸い、セカンドトップの相棒が面倒をみてくれて、翌日の昼には復帰することができた。同じ部屋の後輩が氷を持ってきてくれたり、パートの違う同期や後輩が大丈夫?と声をかけてくれた。みんな優しいな?

音楽自体は、正直どうだったかあまり記憶が無い。2日目は意識朦朧としていたし、3日目は復帰直後で最高のパフォーマンスはできなかった。言い訳がましいが、つまるところ練習不足が露呈した合奏を繰り返してしまった。

ところがどっこい、最終日の夜の恒例、アンサンブル大会では最高の演奏をかましてしまった。これが音楽だ、と思った。前までのアンサンブル大会では、少ない練習時間のなかいかにして「合わせる」ことができるかの、時間と技術との争いだった。でも今回は違った。表現とか、愛とか、感情とか、そこまでを含んで音楽は音楽として存在するのだ、と気づいた。

やはり音楽は、愛だ。愛を表現するためには技術が必要だ。だから私は練習するのだ。

 

 

こんな夏だった。

俺の夏はもう終わった。季節も変わり目に差し掛かった。

次の夏も、これを上回るものにしたいな。

 

今は、次の演奏会にどのくらいお客さんが入ってくれるかだけが心配だ。

それでは。